第85話    「黄鯛と剛鯛」   平成17年11月20日  

幕末から明治にかけて釣をした鶴岡の士族、氏家直綱の鯛鱸摺形巻(文久2年から慶応3年の間の魚拓の魚拓を一巻の巻物にしたもの)の中に巻頭を飾っているのは今から約140年前の文久三年(1863)に釣ったと云う一尺一寸八分の剛鯛と書かれた黒鯛である。この聞きなれぬ名前について調べて見た。

この氏家直綱の摺形の剛鯛と墨で黒々とはっきりと書かれた文字は、30cm前後の黒鯛のことで現在鶴岡周辺では黄鯛(コウダイ、コウデェ)と呼んでいるものと一致する。鶴岡の庄内釣りの釣師今間兼雄氏はその著書「庄内の黒鯛釣り」の中で、剛鯛が黄鯛と呼ばれたのは何時の頃からかはっきりとしないとしながらも、明治の頃からではないかとしている。その昔、士族たちがゴウデェと呼んでいたもので、つまり平民たちが磯釣りに参入して来て釣り人が多くなってきた頃にコウデエとなったと云うものである。

しかしながら、同時代に書かれた陶山槁木の「垂釣筌」を見るとその中に黒鯛を黒、黄、二歳、篠小鯛と大きさ別に四つに分類している事から、明治時代以前よりもうすでに黄鯛の名前が使われていることが分かる。黄鯛と云うのは一説に依れば、この魚が一尺前後の時は、やや黄色身を帯びた銀色をしているからだと云う説がある。幕末には黄鯛、剛鯛と云う言葉は、並存して使われていた事が分かる。ただ発音では残らず、文字で残っている言葉であるからはっきりとその正しい発音が出来ないのも確かである。単純に発音すれば前者がコウダイ(訛ってコウデェ、コウディ)、後者がゴウダイ(なまってゴウデェ、ゴウディ)と読める。当時の武士たちが、そのいつも釣れて来る引きの強い黄色身を帯びた銀色の30cmクラスの黒鯛を、強そうな名前を用い当て字(当時の古文書には、多くの当て字が多用されて出てくる)を使って「剛鯛」としたのではないか、と思われるとは、自分の説である。

明治以降平民(町民、一般人)たちが多く釣りを楽しむ事が出来る時代となって、庶民の釣が浸透すると黄色の鯛、つまり黄鯛の方がより一般的となり、それが定着し現在も使われているのではないだろうか?現在でも鶴岡より南の地区ではその愛称「黄鯛」がごく一般的に使われている。現在も使われているかどうかは分からないが、秋田県では河鯛、庄内磯の南の新潟県では篠小鯛以外をすべてコウデと呼んでいたと云う。